荒川 洋治『本を読む前に』新書館 1999

drawer2006-01-04

p77「三〇年前の文章」
(…)「、」は思考のリズムであると同時に、呼吸のリズムであり、言葉がつくる風景を楽しむためのもの。それは作者の楽しみであり、同時にそれをたどる読者の楽しみでもある。書く人は自分の文章を意識し、読む人はその文章を読むことを意識する。「、」とはそういう世界なのである。

p150「二回のテーブル」
(…)「ものみなが眠った」ことと、「どこもかしこも夜だった」という二つのテーマ(フレーズ)は同根だから一つにできるのではないか。どこも夜だったのなら、みなが眠るのはあたりまえだ。と、感じる人もいるだろう。それは詩的な見方というものである。日本の読者も批評家もそのあたりで目をとじてしまう。それはひごろ散文だけを読むためで、詩は全部、詩的なものにされてしまうのだ。読者が詩的であると、詩じゃ消えてしまう。
(…)詩はそれがすぐれたものであれば詩として読んではならないのだ。むしろ散文として扱ったほうが核心に迫ることができる。もっといえば詩は散文なのである。まちがっても詩的なものではない。そうではない、とする人たちは言葉に対する態度が固くなっているのだと思う。詩と散文はまるで異なるものであるかのように見なす学者や批評家や、読者の意見をいつまでも鵜呑みにしてはならないだろう。ブロツキーは詩ではなく、言葉を並べていた。眼は凝らしたが他人の夜のことなので、光が足りない。書いたことも見えない。一度つかった言葉も、戻ってきた。この詩はそういうことなのかもしれない。