天沢退二郎『紙の鏡―天沢退二郎批評論集』洛神書房 1968

drawer2006-01-02

*1

p16「詩と言葉 状況への序言」
(…)外廊のかたち・構造だけを見きわめてすむことなら苦労は量的なものだけだ。駅のホームの端に立って奇妙な角度で二本のレールを眺めつづけついに忽然(こつぜん)とレールが消えてしまうのを待つように、私は詩句を読みかえすのをやめてじっとはすかいにみつめつづけてそれらの行が消えてしまうのを待つ。…殆どの場合それは徒労に終る。私だけがこうなのか。行間の白地はついに透らなくてもいいのか。疑いの果てにふと夢を見るときのように私は中にいることがある。夢魔であり、悪と病いの世界であり、遊星ガンであり、詩は肉と息をもった柔らかな飛行体になる。

他の人にわからなくたって
自分の体に巻きついた紙くらい読めるわよ
それを楽譜にあたしはあんたを演奏する
あんたたちという現象は
あんたたちの肉体を使ってあたしが
演奏する音楽のことなのよ

p17 (…)変化するにつけてしないにつけからみあったいくつもの原理をもっている情況の動きとあるときに等速になることはあってもそれとは根本的に別の原理でひたすら動いていく時の女たちの行列に、これくらい無邪気にまつわりつきせかせかとあえいでいる国民も少ないだろう。

p26「詩と言葉 語られる言葉の河へ」
(…)ここから外へ、人間の制約の外へ自己を開こうとするとき、私たちの眼前にあるのは言葉の河だ。その水はいっとき私たちの体に充満するかと思うとあるときは私たちを完全にはじき出して受けつけず、流れの早さはときに私たちの足をとって倒れこませてしまう。この河に竿さすには水―言語の本性の再検討こそ必須である―というわけで最近の言語論の流行ぶりはめざましい。「言霊」的な、言葉の呪術性への神がかり的信仰の復活はここで全く根絶やしにする必要があるとしても、それは単純な図式的手つづきによってではない。このとき、私たちの詩の尖端(せんたん)は「外部」という眩暈的奈落のせとぎわに立っている。「言語とは真実でもなければ時間でもなく、永遠でもなければ人間でもなくて、つねに外部というものから解放されたフォルムである」「文学とは、燃えあがる自己呈示にいたるまで自己へ接近する言語ではなく、自分自身からは最も遠くへ身を置く言語である。」(ミシェル・フコー「外部の思考」)

p27 (…)なるほど私たちは詩を書く。ところが詩を書くことはすでに書くことではない。そこにあるのは「語り」なのだ。ところがそのとき語るのは私たちではない。さればといってギリギリのところここでハイデッカーの《言葉が語る》にたちかえることはもうできない。この点については菅谷規矩雄(すがやきくお)が『詩の終り』で基本的に明らかにした通りである。あのとき、菅谷はこう書いていた―「いうまでもなく私たちは、語る、のではなくて、書く、のだがそうでありながらも、ときとしてあいまいにまたシンボリックに、語る、という語を書かれたものについてもちいるとき、そこにいつしかまぎれこんでくる混乱がある。―もはやほんとうに語ることはできない―という先入主が、私たちをして書かせるもっとも根本の動機であるのかもしれず、それゆえに私たちをとらえるまどわしなのである。(……)私たちは書いているかぎり、けっして語ってはいないのだ。ただ現象的にのみならず、本質論としてそういわねばならない。なぜならそこにまた私たちの詩へのひとつの確信がひそかにうめこまれているからである。私たちの声は私たちの現在として詩でありうるのだ。
(…)私たちはなるほど詩を書く、しかし詩の言葉は本質的に語られる言葉であって書かれる言葉ではないのではないか、と。そしてそこにこそ私たちの詩の自由が存するのではないかと。

p33「詩と言葉 現代詩とエテトロピー構造」(…)『言葉と物』が次のようなボルヘスぼテキストがもたらす笑いから生まれたとして《ある中国の百科辞典》の引用からその序文を書きだしている。それによると動物は次のように分類される―《(a)皇帝に属するもの、(b)防腐処理を施されたもの、(c)飼い馴らされたもの、(d)乳呑み豚、(e)海の魔女(シレース)、(f)架空の動物、(g)野良犬、(h)この分類に含まれるもの、(i)気狂いのようにさわぐもの、(j)教えられないもの、(K)非常に細いラクダの毛の筆で描かれたもの、(l)etc、(m)ついさっき壺を壊したもの、(n)遠くからは蠅の群のように見えるもの》この分類は考えれば考えるほどおかしい、奇妙な笑いとさらにそれ以上のものを私に強いる。その正体は何か。フコーは、この分類法のおどろくべき奇怪さは、われわれの西欧的思考ではとうていこれを考えられないところにあるとし、その不可能さの正体を的確に追求していく。考えられないこと、それはこれらの項目をそれもアルファベット順に!並記できるということだ。

旗にうごめく子どもたちを裏がえす者は死刑
回転する銃身の希薄なソースを吐き戻す者は死刑
胃から下を失って黒い坂をすべるもの死刑
いきなり鼻血出して突き刺さる者は死刑
はじめに名乗るもの死刑
夜を嚥下(えんか)し唾で空をつくる者死刑
ひとりだけ逆立ちする者を死刑にする者死刑
つばさがないので歩く鳥は死刑
鳥の死をよろこばぬもの死刑
死刑を死刑にする者とともに歩かぬもの死刑
めざめぬ者は死刑
めざめても青いまぶたのへりを旅する者死刑
死刑にならぬというものら
死刑を行なうものら
死刑を知らぬものら
を除くすべてのもの死刑

p66「詩と言葉 言葉の暴虐・vice versa
《おのれの意志によっても、あるいは無理をしてでも、ひとは砂漠(デゼール)へ行くことはない。ひとは砂漠にいるのであり、どうやってそこに至ったかを真に知ることはけっしてない。《おれは砂漠の者だ、おれは砂漠だ》などと口にする可能性もまた全くない。砂漠とは「私は存在する」の抹殺である。僕の云うのは、感情・観念・意志etcとは別の、異なった正体をもっていることをとつぜん露呈(ろてい)するような砂漠のことだ。砂漠は僕たちを砂漠化する。苦悩や憂鬱などここでは無関係だ。そして、僕自身に全く客体的なものとして現れる言葉の源として、僕はこれ以上のものを知らない。…おそらくこの状況こそ詩人の現存在であると僕は考えるようになった。》
(「ルヴュー・ド・ポエジー」誌70号、無著名無題詩論から)

p67 この“砂漠”という語を私は“廃墟”でおきかえる。ただしそれは私たちの生活線がそれぞれに形成してきた島々のあいだの、バランスの廃墟と呼ぶべきものであり、私たちの詩はそこから私生児として生み出されてくる言葉たちのきびしい綱渡りを生きる。そして詩的虚構のいっさいがこの綱渡りの賭けにかかっている。

p80 ………
私達の何度も書きかえられる方法論よ その
低い姿勢に耐えられないとき 真赤な爪の
言葉が一人歩きを始める
それが私の恐怖だ
青くさい基準を斥ける知恵よ 理論の結集点を
ひとつひとつ置き去りに風化していくとき
私は恐怖を全く忘れてしまうだろう おおそれが
私の恐怖である
(岡庭昇「恐怖論」ぎやあ15)

p81 《ことばがやってくる。ことばどもが。ぼくがほしいと思うような語ではなく。ぼくの望むようにではなく。あるべきかたちに結びあわされてでなく。あるべき秩序にしたがってでなく。配慮されたフレーズの端っこだけ、いくつもの切れ端、手足だけをかたちづくりつつ。》
(En difficulte)

p84「詩と言葉 ピーター・ダックの蟹」
(…)動くものたちの間を動きながらのデカラージュには必ず、それだけの真実の影は落ちている。というより、それら相対性の生みおとしたデカラージュこそ、私たちの直面している言語そのものの姿だからである。

p87 (…)<旅>というモチーフの、詩を考えるさいの根源的な重要性は今さら云うまでもあるまいが、旅は詩人の病いであり、旅をするのはその病いだけであり、その病いの根源は詩のはじまりのいわば前史に巣喰う母の悪であり、そこに根ざして滋養を吸いあげたおぞましくも美しい果実が詩であるということどもは、自らのオリジンを目ざすあらゆる詩についていえることである。いったい誰が旅をするつもりなんだ?<どう考えてもおかしかった。姿をくらますことはあっても、旅行などといういかにも単純な開放的なことを詩人はしないのだ>(山本道子「そこに蛇がいる」その8)

p111「現代詩の倫理」
(…)ぼくらは「詩」を書かなければよい。「詩」はあなた方にまかせて縁を切ればよい。それが現代の詩の倫理である。詩を解放し、ぼくら自身「すべて」の暗黒の中空に、生の開示のことばそのものとなって懸ること。詩の自由を拘束する唯一のものである自由それ自体をめがけて宙を走ること。何ごとも口でいうのはたやすい。
ここまでぼくらはぼくらをめぐる「すべて」の曖昧模糊とした構造から出発して何ごとかを考えてきた。最初にも断っておいたようにこの「すべて」とは、歴史的あるいは日常的な人間の現実の総体をさすのではなく、「現実も非現実も限界づけることのない全体性を意味すると同時に、何によっても限界づけられることのないこの自由があるにも拘らずそこに合体させられ包みこまれるようなひとつの全体」とブランショが呼んだものとほぼ近い概念を想定していたのだった。しかしぼくはここで問題を「現実」の次元へ引きおろしてみたいと思う。なぜなら、ぼくらのあらゆる思惟が知覚もしくは感覚を最初の出発点としていると同じく、「すべて」について語りながら絶えずぼくは、告白すれば、ぼくらの「現実」との対決関係を意識し、その意識を通じてぼくの独断的な思考を可能にしていたといわねばならないからである。
(…)詩は現実とは不連続の別の空間であり、その限りにおいて「峻別(しゅんべつ)」さるべきなのだが、だからといって断じて無関係ではないどころか、その現実の関わり方(それは単なる対立関係や加・被害関係に還元すればすむようなものでもない)こそ詩の本質的な存立条件であるということもまた言をまたない。

p113 (…)詩的行為が現実認識と重なりあうことは、部分的にという条件づきでさえ認めることはできない。あるいはまた、ぼくらの一部が口にしているような、「問題にすべきはもう現状認識ではなく」「認識の次元に居すわる」のではなくて強靱な欲望の体系と自ら化して「現実現象を変革し超越する」といった威勢のいいお題目も、しょせんは空疎なものでしかないのである。なぜならば、「詩人はおほむね現実に暗く文明に遅れた根性まがり」(石川淳)といった常識的な嘲罵がつねに一面の真理をあらわしている通り、いや「おおむね」どころではなく、詩人はまさしく現実認識の面でヨワイといわねばならないのであって、それを超越するどころか、そこに「居すわる」ことさえもぼくらの力の及ぶところではないのだ。しかしながら、大急ぎで付け加えるが、この「弱味」は実はぼくらの弱点ではなくて、これこそぼくらの強味、不可能性そのものを可能性の唯一の根拠となしうるぼくらの力を支えているのである。

p115 (…)正確にいえば、詩は日常に「接近」することはありえない。そうではなくて詩は日常に近づきそれに触れあうよりも早く、その日常を通り越してしまう。詩が日常をとらえるのは、その非日常性、もしくは日常性的本質においてにほかならない。
詩がつくりだす世界=詩的現実は、日常的現実の向う側にオーバー・ランして「すべて」に対して開かれる非日常的日常の原形質性空間であり、ぼくらの詩がかち得るはずの力は、そのつくりだした非現実空間の深さ、その深さがもつ、オリニックな力学構造の反動力、それにぼくらが与えることのできる秩序の質にかかっている。

p120「詩はどのように可能か」
(…)かからさまな失笑・冷笑を前にするとき、ぼくらは反射的に顔面を硬直させてしまう。しかし、この失笑の中に恐らくは真理があることを、しかもその真理がぼくらの側のものであること―ぼくらの武器でさえあること―に、ぼくらは気づくべきなのだ。

p122 (…)詩人がまず表現したいものを持ち次にそれを読者と共有するために作品化しようとして「表現」に努める―といった意味での表現では詩はないというのは、実はあたりまえのことだ。(例えば、メルロー・ポンティは、表現とは新しいひとつの意味を創造することであるとしている。)

p126 (…)詩が深みでもコミュニケーションであることに疑いの余地はない。このコミュニケーションは「真の」それであって、日常的なそれの断絶したところから始まる。これはイロハだ。ところが、「真のコミュニケーション」は沈黙でしかありえない。詩的なるもの=即ち《聖なるもの》は、語られないものであり、「明らかにされないがゆえにのみ明らかなもの」だから。これが「この不可能性」とよばれるものである。(詩のことばは「語るべきことがなにもないとき語る」ところのものだ。)

p128 (…)詩はたしかに詩人の真実である。だが詩の真実の方は既にそれと別のものであることに、詩人はなかなか気づくことができない。なぜなら詩人は自分の真実にしか関わることができず、詩の―作品の真実の方を読解することができないからだ。逆に読者の方は、本来、作品の真実にしか触れることができず、従ってそれ以外にコミュニケーションに関わるすべはないのに、専ら作品から作者の真実を読もうと(あるいは読みとったと)考える。

p129 真実としての力とは《痛み》を与える力であり、《傷つける》力である。それはあらゆる秩序に対する破壊力、そして何よりも自己に対する破壊力の原形質だ。それに反して、露わにされてしまった真実ほど無力な、興醒めな、人を幻滅させるものが他にあるだろうか。それは既に真実の死体であり―いや、死体でさえもなく、単なる抜け殻でしかないだろう。
だから真実を現出させることはしかし真実を現出させることではない。詩においては、真実を匿し、そのことによって、匿されたものとし強烈に現出させなければならない。(美的事実とは、実現しない啓示が眼前に切迫していることを表わす、とボルヘスは云っている。)これが、作者の真実が作品の真実と関わりあう唯一のあり方ではないだろうか。

さっきぼくは詩人がもっとも誠実な人種に属していると書いたが、こう考えてくると、詩と真実の矛盾は、通り一遍の「誠実さ」ではどうにもならないことは明らかだ。真に誠実な詩人は、誠実さにしがみつくことの不毛な欺瞞よりも、詩の欺瞞性をわしづかみにするペテン師としての、あえていえば悪の誠実さを選ぶにちがいない。これが不可能性によってのみ支えられた唯一の可能性の選択である。

p130「詩の技術」
真実を匿し、匿されたものとしてそれを現出させる―これは、従って高度のペテン師的技術の問題である。匿すこと、消失させること、それだけならさほど難しいことではない。匿されたものとして現出させることが問題であり、しかも現出させたから現出するかはつねに疑問符の向う側にしかないのだ。すでに述べたように、可能性の手前にはつねに不可能性の試練が待ちかまえている。
この試練に際してぼくらが揮わねばならない技術は、無感動に反覆される職人のそれでもなければ、厳しい修練によって着実に研磨され高められていく「芸」でもない。(「芸」の修業はつねに、「悟り」へ通じる精神性の顕揚(けんよう)を伴うのだが、この精神性とは、高まれば高まるほど詩から遠ざかってしまうものなのである。)

*1:自分を映してみつめなければならないのは、鏡の中ではない。人々よ、紙の中におのれを見よ。―アンリ・ミショー